| 真鶴の巻 |
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★真鶴の風物詩 まご茶漬け 現在でも真鶴の磯料理と言えば、「アジのたたき」や「アジの刺身」といった品が必ず卓上の一品になります。朝、魚市場に顔を出せば、そこでセリにかけられているのが「鯵」です。真鶴にいて日常いつでも食べられる魚の代名詞が「鯵」と言えるかもしれません。そんな環境で生れたのが「鯵のまご茶漬け」です。 鯵のむき身を適当に包丁で叩いたあとネギとショウガを刻んで混ぜて、それをご飯の上にかけ、熱いお茶をかけて食べるという料理です。至極簡単な料理だけにその美味さのポイントは新鮮な魚にある訳です。チョットでも古いものになると湯気からたち昇るその香りは生臭くて食べられないものになるからです。これは、いわゆる漁師料理です。 父ちゃんが朝早く漁に出て穫ってきたアジをとりあえず刺身で食べて、あまった刺身を叩いてご飯に乗せて湯をかけて、茶漬けとしてすする、という漁師町では昔からずっとしていた当り前のことが現在に至りその素材の新鮮さ故にクローズアップされたのかもしれません。 ★真鶴の風物詩 ハンバ 12月も中頃を過ぎ、木枯しの冷たい北寄りの風が吹き始めると真鶴の磯は荒れ始めます。 そんな季節になると真鶴の人達がにわかに気にしだすのが「ハンバ」=「ハバノリ」のことです。「ハンバ」=「ハバノリ」とは真冬の荒磯の波打際につく天然の紅藻類の岩海苔のことです。生のモノで3〜5cmくらいの海苔が冬の強い風によって荒磯の岩につくのです。 磯の香りがとても強く、ご飯にかけて食するのですが、海苔と同じように真水にさらした後、後、スダレの上に天日で干し、ノリ状にしたあと火であぶり、手でもんでご飯にかけます。 その独特の磯の香りは取れた地域によって微妙に違うようです。以前、家の者が「葉山の方でもハンバが取れるらしいけど、あっちで取れたハンバは香りがない。」と言っていたのを思い出しました。 真鶴という磯の町に住んでいると、いつのまにかその磯風が体にしみこんでいて、他の地域の磯の香りとを知らず知らずのうちに身体がかぎわけているのかもしれません。まさにハンバは真鶴の人々にとっての冬の風物詩といえると思います。 ★魚つき保安林 真鶴岬は寛文12年(1672)年に15万本の松の苗が植えられたといいます。明治37年5月に珍しい「魚つき保安林」に指定され、大正9年12月に追加指定を受け、現在「魚つき保安林」として35haが指定されています。木陰をつくり、枯れ葉や虫が海に落ちて、魚のえさを生むとされ、魚師の間で、魚の集まる森として大切に守られてきました。昭和35年10月に「御林」を含む48haが県立真鶴半島自然公園特別地区に指定されました。 森林がなぜ魚を集めるのか、科学的に解明されていませんが @海面に暗がりを持たらし、それを好んで魚があつまる。A海に落ちた虫にプランクトンが繁殖し、それを食べようと魚が集まる。A雨が降っても、森林に吸収されてから海に流れ出すために海水温の変化が少なく魚の生息環境に適している、以上の様に考えられています。真鶴半島を取り囲む様に仕掛けられる定置網。真鶴の漁業がなりたっているのも緑の森林があればこそ、という訳です。 町では定期的に松くい虫の駆除や木の健康診断を行ない、次世代に残していけるよう大切に保存しています。 ★真鶴の活魚料理 相模湾にチョンと突き出た真鶴半島は、まさに魚の宝庫。ここで獲れたばかりの新鮮な魚を素材に用いた活魚料理は真鶴ならではの大きな楽しみのひとつです。真鶴港と岩漁港の二つの港には、毎日いろいろな魚が水揚げされ市場では今日の料理用にと活気あふれるセリ風景がみられます。水揚げされる魚は、アジ、ワラサ、イシダイ、イサキ、カサゴ、アマダイ、マトウダイ、キス、タチウオ、サワラ、ムツ、ヤガラ、カマス、カンパチ、ヒラマサ、メバル、ヒラメ、タイ、ホウボウ、カツオ、イワシ、サバ、ヒラソウダ、メダイ、カワハギなど多彩な顔ぶれ。このほか、イセエビ クルマエビ、サザエ、シッタカ、トコブシ、アワビやヤリイカ、アオリイカ等、実に200種にも及びます。真鶴半島をめぐる道沿いには、活魚料理店や寿司屋が連なり、旅館や民宿ではお食事だけも利用でき、一品料理や定食から豪華な舟盛り料理まで、ご予算に合わせて召し上がれます。 ★真鶴であがる魚 あなたはいくつ 知っていますか?食べたことがありますか? 読めますか?書けますか? ★小松石(コマツイシ) 今やたくさんの人々の人気スポット東京で特にの修学旅行のコースにさえも入っている「お台場」。一見真鶴とは何の関係もない様に思われる場所ですが、実は1853年ペリー来航に脅威を覚えた幕府が、江戸品川沖に急きょ11個所の砲台の建設を始めた時、そこに使用された大量の石材が、真鶴周辺を中心とした相模伊豆の石材であったのです。 この石材は小松石と呼ばれています。 小松石の名は真鶴町旧岩村の小松山に由来しています。今日では真鶴以外の産地の石にも付けられていることから真鶴産の石は特に 本小松石(ホンコマツイシ)と呼んでいます。真鶴の石は鎌倉時代から広く使われていましたが石材の産地として有名になったのは徳川家康が幕府を開いた頃です。船による石材の江戸への運搬もこの頃盛んに行われたそうです。本小松石は箱根火山噴出の溶岩です。緻密で耐火性が強く、良く磨き上げると青黒い光沢が美しく高級な石として墓石、建築材、庭石、モニュメント工芸製品として幅広く利用されています。 ★名残りの地名 箱根火山から噴出した溶岩が固まった安山岩、文献的には鎌倉時代から登場し、当時は伊豆石、相州石と呼ばれ日本最古の築港「和賀江島」〔林木座海岸〕の建設などに使われました。 全国的な石材産地として真鶴の名が全国に知られる様になったのは江戸時代初め、江戸城築城のため真鶴周辺から大量の石が切り出されてからのことです。 産出する小松石が良質であること、江戸に近いため船で輸送するのに便利なことなどから真鶴に白羽の矢がたちました。 海辺の一閑村だった真鶴に石曳船がひきもきらず集まり石丁場では武人や人足たちが忙しく動き回る真鶴を代表する産業となりました。今現在、石とは全くゆかりのない様な町のなかでも、ためしに駅前からタクシーにのり「石場までお願いします」とたのめば、現在では全くその面影ものこさないその場所までタクシーがつれていってくれます。 ★真鶴半島・サボテンランド 空からの真鶴半島。相模湾に向かって鶴が羽を広げた様に見える処が原生林。岬の先に見えるのは名勝三ッ石 (笠島)。干潮時には半島と陸続きになり歩いて渡ることができます。観光客や磯遊びをする家族づれで、いつも賑わっています。 半島の岬地区は樹齢350年から400年のマツの大木や、シイ、クスの巨木が生い茂っており、小鳥のさえずりを聞きながら原生林を歩くのも健康的で楽しいものです。樹林帯では遊歩道が整備され静かな海岸の番場浦遊歩道と三ッ石に至る潮騒遊歩道につながっています。また、真鶴半島岬地区には世界中のサボテン2500種、と熱帯植物を集めたトロピカル・ムード満点のサボテンランドがあります。野鳥苑も併設しており、放し飼いの鳥たちを観察できます。北米から来たプレイリードッグやここでしか味わえないアロエを使ったソフトクリームは評判の人気です。 ★怪傑ハリマオ伝説 昭和30年代初期、まだ白黒テレビが一般家庭に普及する以前、当時のゴールデンタイムに子供達の人気番組として一世を風靡していたのが、月光仮面やナショナルキッド、怪傑ハリマオや穏密剣士などといった懐かしのスーパーヒーロー達です。そのなかでも、なんと物語では、はるか南にあるインドの村が舞台だったはずの怪傑ハリマオのアクションシーン撮影ロケ地が、大木がおい茂り光に満ち溢れたこの真鶴半島の「おはやし」だったのです。 東京にあるテレビ局から日帰りできる利便性と、どこかエキゾチックを演出する植物が、その無国籍でインド風のハリマオワールドの舞台として的をえていたのかも知れません。それ以来、隠密剣士など現在に至るまでこの真鶴半島がたくさんのTVドラマの背景となったことは言うまでもありません。今でもその面影を残す遊歩道に一歩足を踏み入れて、かつてのモノクロのヒーロー達を懐かしんでみてはいかがでしょう。 ★貴船神社 今からおよそ、千百年前の寛平元年(889)の夏、岬先端の笠島に御降臨された大国主神(おおくにぬしのみこと)を、貴宮の明神として平井の翁が動請したことに始まり、村人と力を合わせて現地に社を建立し、代々平井家が奉仕して村の鎮守としてお祀りしてきたが、明治元年に政府の発足に伴い貴船神社と改称し現在に至っている。祭神としては他に少彦名神(すくなひこのみこと)、事代主神(ことしろぬしのみこと)の三神を奉祀している。神社には江戸時代を含め多くの古文書が保存され、神社資料はもとより、漁業、海運業、更には民族資料等貴重な文献もあり、一方では本殿の装飾品である欄間等に使用された木彫りや和船模型等、往時の工芸技術の高さを知る上で貴重なものである。船祭りについては、全国的にも有名で県内唯一のものであり、日本三大船祭りの一つとして、祭礼時には県内外より多くの観光客が訪れます。 ★日本三大船まつりの貴船まつり@〜まつりの由来〜 貴船まつりには、祭りに登場する船の構造や進水、操船の方法や腕くらべとも見られる各行事、または組織の結束や祭りに関するきびしいしきたりなどが随所に見受られます。古来、貴船まつりは恩返しの祭りと言い伝えられて来ました。海運、石材業における安全、漁業の大漁祈願とともに日常の安泰な活動の営みへの大いなる加護と深い感謝を込めて、夏の真鶴の熱気をさらに高めつつ、勇壮・華麗に繰り広げられます。 ★日本三大船まつりの貴船まつりA〜まつりの特徴〜 貴船まつりには、祭りに登場する船の構造や進水、操船の方法や腕くらべとも見られる各行事、または組織の結束や祭りに関するきびしいしきたりなどが随所に見受られます。古来、貴船まつりは恩返しの祭りと言い伝えられて来ました。海運、石材業における安全、漁業の大漁祈願とともに日常の安泰な活動の営みへの大いなる加護と深い感謝を込めて、夏の真鶴の熱気をさらに高めつつ、勇壮・華麗に繰り広げられます。 ★日本三大船まつりの貴船まつりB〜まつりの進行〜 7月27日 7/27の朝、東西小早船が進水し、お仮殿前の海岸に神輿船(みこしぶね)、囃船(はやしぶね)、櫂伝馬(かいでんま)とともに並び待機します。献弊使(けんぺいし)神輿乗船を合図に囃し船は一斉に囃を打ち込み、櫂伝馬が他の諸船を曳航し宮の前の海岸に向かいます。海岸に到着した献弊使は鹿島踊り子連の出迎えを受けつつ神社に向かいます。この後神社において例大祭が行われ、祭典終了と同時に境内下で鹿島踊りが奉納されます。再度神輿船は各船を伴い、元のお仮殿前の海岸に戻ります。神輿は上陸後、磯崎の東船上げ場付近で海中に入った後、お仮殿に入御し、仮殿祭が行われ終了後鹿島踊りが奉納されます。 ★日本三大船まつりの貴船まつりC〜まつり 一口メモ〜 鹿島踊り 小田原より相模湾を南下して伊豆北川までの海辺の町の22社に伝えられた神事舞踊。 ★真鶴の昔話 ボンボン鮫 むかしむかし、三ツ石の沖に子連れの夫婦鮫が住んでいました。ある時、帆船が江戸に大きな鐘を三つ届けるために真鶴沖まで来ました。その時、海がひどく荒れだしました。海をのぞくと船のまわりに大きな鮫がいました。船ごと沈没してしまうと、あわてて大きな鐘を投げ込むと、大きくしぶきをあげて大鮫を吸い込むようにして海に沈んでいきました。「まだ鮫がいるぞ」というので二番目に大きな鐘を投げ込むと、海は嘘のように静かになりました。次の日の朝になり、せめて一番小さい鐘だけでも江戸に届けたいと思って出発しようとしましたが、またもや海が荒れだしました。「これは海の神の怒りにふれたのだ」と江戸に行くのをあきらめて、残った鐘を港近くのお寺に奉納することにしました。すると荒れていた海が静かになりました。それから三ツ石の沖を船が通ると、いつもボーンボーンと鐘の音が聞こえてくるといわれています。これは、残された子鮫が、鐘にとじこめられたお父さんやお母さんに会いたくて、自分の尾びれを振って鐘を叩いている音だそうです。 ★貝とりの想い出 それは昭和50年代のことですが、その頃の小学生、中学生の夏休みといえば、どこかの海で泳いでいることが日課のようなものだったと思います。 私もご多分にもれず、朝、起きた時にその日の天気が気になりました。晴れれば潜れる!!このことが一番の楽しみだったのです。 尻掛海岸でも潜れば、タコ、イセエビ、トコブシ、アワビ、サザエ、シッタカetcいろいろな魚貝類がとれました。その頃の私たちにとっては、アワビ、サザエが漁の収穫でありシッタカなどはとっても捨てるような貝でした。「シッタカ」(本名ニシキウズガイ科馬蹄螺)、塩ゆでにして食べる。この貝は大人になった今でこそ、その一つ一つの身をほじり出して食べるうまさがあります。そして、「トコブシ」(漢字では「床伏」別名ニミミガイ科のナガレコ、ナガラメ、アナゴ)、石をひっくりかえすとその下を流れるようにはうことから、「流れ子」などの地方名がある様ですが、今では高価なそんな貝を平気で捨てることが出来た当時をちょっとなつかしく思い出します。 ★頼朝と坂の町真鶴 1190年頃、源頼朝は真鶴の岩の海岸から千葉に向かって舟をこぎ出し、逃げのびたといわれています。今の御時世と違い頼朝が生きていた時代は、ともすれば道さえも無かった時代です。そんな時代に山の道、海の道を上へ行ったり、下へ行ったり、それこそ獣道を歩き巡ったことでしょう。海岸で昔のままの面影を残している場所などをみれば、「ここの岩の間にでも隠れていたのかな」などと思いをはせてしまう場所がそこかしこにあります。頼朝の時代には隠れやすい場所、そして今の私たちにとっては坂の町、歩いて行動がしにくい町という姿が浮びあがってくるのです。 昔の人達はそれこそ自転車、ましては自動車などなかった訳ですから、その健脚ぶりは推し図れませんが、少なくとも現在この町で暮らしている私達にとって、この地形は言いようのない不自由さをもたらします。どんな場所に住んでいようと、駅への道は「上り」か「下り」しかありません。それを考えただけでも、お年寄りにしてみればつらいことかもしれないのです。 ★地名のルーツ専祖畑 真鶴の役場前の丘の上に「石工先祖碑」という石造の碑があります。石組四段の台座の上に高さ1.43メートルの塔身が立つ巨大なものです。この石碑が立つ所から北側の斜面や窪地一帯を「専祖畑」と称し、それは「石工先祖の碑の立つ畑」の意味であります。 保元・平治の乱を逃れて都から下ってきた、土屋格衛が、岩村において石材業を開創しました。鎌倉幕府が開かれると、多量の大石を供給し、大田道灌の江戸桜田の築城や、徳川の江戸築城に当たっては、そのつど、この村から大量の石材が供給され、村の繁栄のもととなりました。 ★地名 岩・瀧の元 真鶴町には川がありません。現在でも水源は湯河原にたよっているのが現状です。けれどもそれでは、真鶴は、水という、人間が生きていく上で一番必要な水をどの様に補給したかといえば、一つには井戸による補給です。それともう一つ、現在でも「清水」の屋号をもつ柴山さん宅脇から涌き出る水が、関東大震災前まで流れていた瀧門寺があげられると思います。子供ながらに「何故タキという字の寺がこんな所にあるのだろう」と思っていましたが、この瀧門寺本堂裏にかかる瀧は、西湘地区きっての名瀧であったそうです。当時の瀧(室町時代)は「風土記稿」にもある様に「岩腹怪奇石畳が如し、高五丈許、飛泉奔下する 雨の如く、石岸にささへて左右に散乱す」と述べられています。現在では大地震によって水脈に変化を生じて、水源が涸れてしまい昔のおもかげはまったくありませんが、そのすぐ横では清水が涌き出ています。 ★真鶴の名前の由来 私たちの住んでいる真鶴町が史実としてその名称が記されたのは「吾妻鏡」にさかのぼる事ができます。けれどもそこで紹介されている地名は「真名鶴崎」という地名です。これによると、真鶴は平安末期にはすでに名称としての「マナヅル」は存在していた事が記されています。江戸時代に記された風土記稿では、「遠望すると大磯崎、西方の川奈崎があたかも鶴の翼 のようであり、中央の出崎である真鶴崎が鶴の首に似ている事から真鶴の地名が起こった。」というのがあります。けれども、これは江戸時代のいい伝えであり、いま一つ説得力にかけます。真鶴の歴史を考察した方の説によると「マナ」というのは岩場のことであり、「ツル」とは連なる、つららのように長いもの、つまり岩が海面に長く突き出したところを表記しているというような考え方もあります。どちらにしても、ここに移り住んだ人々が、山側からか海側からか、三つ石を起点にしてこの地形を見てつけた名前の様です。 ★海辺の時計(漁師町の朝) 誰にとっても一日は24時間です。けれども生活している環境によって、それは長くも短くもなる様な気がします。舟里の朝は4時頃から始まります。海老網を閉め市場へ出すため、船のエンジンの音が威勢よく聞こえてきます。防波堤の手前に、港の中ではあまり音を立てないようにゆっくりと、それが外海に出るなりパンパンという音をたてて網のもとへと船をすべらせていきます。田舎の朝はこんな具合です。したがって、お昼の時間も早いのです。そして夕方と共に夜がやってきます。けれども、朝日と共に始まる時間の流れは実はそれ程、苦になるものではありません。時間という枠でなく、お日様という流れに従って仕事をすれば何も苦はないのかもしれません。全てを自然にゆだねて、自然のほどこしを受ける生活をするのも、我々にとって忘れてしまった何かをとりもどせる最良の手段かもしれません。 ★名前の由来は?ホウボウ 水深100m前後の砂泥地に住み、海底をはうように泳ぎながら小さなエビやカニ、シャコ、 小魚などのエサを食べるという様な「ホウボウ」。海底生活をするため、腹面が偏平となった縦偏形の体形をしています。白身で脂肪が少なく味は淡泊です。名前の由来は、頭が角張っている為「片帽、方頭」であるとか、海底をほうぼうはい回るからとか、釣り上げたり網からあげたときに、浮き袋でグーグーと発音する音になぞらえたとか、いろいろな説があっておもしろい魚です。 この魚は、煮ると皮、骨のコラーゲンが容易に分解してゼラチンとなるため煮こごりができやすいのです。冬に味がよい魚で、身が白身で淡泊なので、塩焼き、鍋物、汁の身、蒸し物、揚げ物、ブイヤベースなどによく用いられます。 ★ウズワ この地方では、「マルソウダガツオ」と「ヒラソウダガツオ」のことを総称して「ウズワ」といいます。この2種のカツオは秋から冬にかけ日本近海を群泳し、夏には北海道沖まで回遊します。「マルソウダガツオ」より「ヒラソウダガツオ」のほうが沿岸性が高く、ときに大群をつくります。どちらの魚も血合肉が多いので生食というよりは、生利節(ナマリブシ)や削り節の材料にされることが多い魚です。 大量にこのウズワがとれた時、その昔我家にもお裾分けとして、それこそ50尾もの魚が届けられたことがありました。もらったはいいけど生食が出来ないこの魚、さあどう処理しようかと、困った思い出があります。結局先に書いた様、生利節を造り、削り節を造りそれから大量の塩で塩づけにしました。この塩づけは、ほんの一つまみでもしょっぱい程のものですが、それを逆手にとって、お茶づけを作ると、程よい塩味のさっぱりしたお茶づけとなります。 町民にとってこの塩辛いウズワは、冬の時期、鮭の塩漬け以上の食べ物として重宝がられています。 ★太公望の嫌われ者「ゴンズイ」 真鶴の防波堤で釣りを楽しむ人々の姿は、平日、休日を問わずいつでも見ることができます。真鶴の湾内では、春はメジナ、シロギス、メバル、夏はアジ、カマス、メジナ、シロギス、秋はイワシ、アジ、メジナ、シロギス、冬はイワシ、メジナ、シロギス、とオールシーズンを通して、様々な魚を釣ることが出来ます。なかでもウキ釣りをしてメジナ、クロダイをねらうとき、外道として必ず釣れてくるのが「ゴンズイ」です。防波堤から海をのぞいてみると、ゴンズイの幼魚が群れをなして泳いでいるのがみえます。これは、“ゴンズイ玉”といって危険を少しでも逃れるために群をつくり、敵に対抗しているのです。そしてゴンズイが釣り人に嫌われている訳は、むなびれやせびれに強い毒をもっているためハリがかりした時、ハリをはずしにくい点にあります。タオルや手袋を持っていればいいのですが、ない時にはハリスから切ってしまわないといけない程その毒は強いのです。でも、その毒をとってしまえば、味噌汁の具として最高のものです。 ★魚 座(さかなざ) 真鶴と言えば最初に浮かぶのはやはり魚のこと。相模湾で獲れた生きのイイ魚が毎日水揚げされています。ここ魚座は活気ある魚市場の中で新鮮な魚を、観て、食べて、遊ぶことができる総合的な漁業施設です。大水槽で泳いでいる魚を見学したり、二階の食堂で海を見ながら獲れたての魚を、食べる事もできます。特設会場では、ときおり楽しい催事が行われています。 ★船出はやはりここから 千葉から真鶴は見えるの? 冬のとてもよく晴れた寒い朝、それこそ、霜柱が立っている時の事です。 夜空の観察や、写真をとる人はよく耳にする言葉だと思いますが 「シーイングがいい」というのがあります。これは空気が澄んでいて、 遠くまで星や景色がよく見えるということです。真鶴半島の突端から 千葉県が見えることを御存知でしょうか?半島から対岸を眺めてみると いつも見えるのはまず西湘バイパスから湘南に向かう海ぞいの町並みです。 これが少し空気がすんでくると横浜の海岸線がみえます。 空気が澄んだ夕方の夕日がランドマークタワーに反射してこちらに映える風景は、 一瞬立ち止まって、日が暮れるまでみていたい気にさせるものです。 そして、もっと空気が澄んでいる日には房総半島も見えるのです。 今程よりもずっと空気のきれいだった鎌倉時代、頼朝は、 その見えた対岸を目指し、舟出をしたのかもしれません。 対岸は、はっきりと近くにみえたのでしょうから。 ★真鶴砲台跡 『泰平のねむりをさます 正喜撰(じょうきせん)(蒸気船) たった四はいで 夜もねむれず』 相模国城ケ島の沖あいに、ペリー率いるアメリカ艦隊が姿を現わしたのは、嘉永6年(1853)6月3日の朝でした。 三つ石を眼下に、伊豆の白波と相模の海を分つ岬の先端に直径2m程の半円形の石積み跡が見られます。ここが「真鶴御台場」の跡です。 弘化3年(1846)に書かれた『海岸御見分心覚帳』(ごけんぶんこころおぼえちょう)によると台場の形は台形で、海岸に面した南面の幅が約25m、長さが約36m、北面の幅が約32mと書かれています。とすると岬先端の広場全体の広さと考えてもよいと思います。 海防政策が急務だった当時の小田原藩は、伊豆韮山の江川太郎衛門の指導のもと、この真鶴台場をかわきりに、大磯「照ケ崎(てるがさき)御台場」小田原海岸の「荒久(あらく)御台場」「代官町御台場」「万町(よろちょう)御台場」の五台場が嘉永5年までに完成しました。 ★岬、お林の木々 「ひかり輝く相模の海にのぞみ、 緑豊かな美しい真鶴半島は、 町民の心のふるさとです。」 神奈川県下の「ふるさとの森」。特に海岸沿いの低地の自然林、くす・しい・たぶ………を中心とした、お林の「照葉樹林」は、関東地方でも極めて貴重な「ふるさとの森」です。 岬(半島)を海沿いに、又尾根道「自然遊歩道」を散策してみますと、大きな木々や背の低い木々の様子、草やシダなどの群生の作り方の違いが分かると思います。周囲の植物を注意して眺めましょう。 「しいの木」を中心とした海岸線の林、樟脳(しょうのう)を取るために植林されたと思われる尾根筋の「くすの木」の見事な高木。寛文の昔(330年も前)に植林された黒松と「しい・くす」の混在した林の様子が見られます。この大きな木の下には、アオキ・グミ・ヤブニッケ……… そしてその下には、アジサイやシダの仲間など色々な草が生い茂っています。 ★岬の歌碑・句碑(1) 真鶴岬を散策しますと、広場や木々の間に数多くの真鶴の自然や景観を素材とした歌碑や句碑が点在しています。 半島の尾根道、県道「真鶴半島公園線」を岬に向って進んで行きますと「サボテン公園」にたどり着きます。ここには、書道家金子清超(せいちょう)・苔花(たいか)夫妻が真鶴の風光美を詠った漢詩と短歌の刻まれた碑があります。 昭和57年に整備されました「石の広場」には、坪内逍遥・片山哲の碑を始め県内・町内の方々の句碑が真鶴を謳歌しています。 木洩れ日の「魚付けの林」の中を岬の先端、砲台跡へ歩みを進めますと、明治34年「みだれ髪」を刊行して文壇の注目を浴びた与謝野晶子の歌碑が岬の雄大さ相模伊豆の海の広がりを詠っています。 歩みを反転させ「琴ケ浜」へ向う途中に、相模灘(なだ)、三浦半島を背景にして、「竹柏会」(ちくはくかい)を組織し「心の花」を創刊した、佐々木信綱の短歌があり、私たちの心を洗ってくれます。 ★岬の歌碑・句碑(2) 『初日の出 なぜ三つ石に 注連(しめ)張らぬ』 坪内逍遥は、松本元町長の早稲田大学時代の恩師であり、坪内先生は熱海に、松本氏は真鶴・岩に住まわれました。逍遥先生は、昭和の初め時々来鶴し松本氏や三宅克己氏を訪ね、その折詠まれたのが、この句です。 『わが立てる真鶴崎が二つにす 相模の海と伊豆の白波』 与謝野晶子は、昭和七年一月二日初めて真鶴の駅頭に降り立ち、水彩画家三宅克己の案内で半島を巡り、その夜三宅氏のお宅で歌会を開きました。この時『わが立てる……』を始め数種の短歌を歌ったと「冬柏」や「横浜貿易新報」に発表しています。 『真鶴の林しずかに海の色の さやけき見つつわが心清し』 『ある老歌人の想い出』の出版がきっかけで親交を深めた真鶴の三木二郎氏は、佐々木信綱の『竹柏会』を 知り、真鶴自生の 「竹柏蘭(ながらん)」を送りました。この「竹柏蘭」を訊ねて信綱先生が来鶴し詠まれたのがこの歌です。 ★尻掛け海岸とボラ網漁 急坂の尻掛け道を、後ろから押されるように下る途中に、苔生(こけむ)した墓石群が左手に現われてまいります。 石段の正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれた二番目に大きい墓碑が見られます。右側面には、「昔時藤玄遊浮帆洋洋順到相陽江(むかしときにとうげんほをうかべあそぶ、ようようじゅんとうそうようのみなと)………其時寛永十有四星………」とあります。 寛文十二年(1672)の真鶴村書上ケ帳には、『ぼら綱場、真鶴より南方大浜崎磯比所にてぼら取申候是は紀州大崎村与次兵衛と申す猟師見立今日迄三十年余御運上にて御請任候………」と書かれています。 寛永年中に紀州から来鶴し、ぼら綱を張り立てた与次兵衛は、紀州藩をバックに小田原藩とも関係を深め漁を進めていきました。 貞亨三年(1686)には、三代目与次兵衛は小田原藩より「新田名田開発」同然として尻掛ボラ綱漁を目録に登録することが申し渡されました。その上、元禄十五年(1702)「船綱諸道具等歳数覚記」の記載からは大規模な漁業経営を推察することができます。 ★岬の山の神 楠の大木が生い茂るお林の中に、土地の古老から「お山の神さん」と呼ばれる山の神が鎮座しています。 真鶴で「山の神」と言えば、石切り場の神様、石工の神様と考えられます。確かに、真鶴に数多くあった石丁場全体の神様であったことは、慶応三年(1867)に寄進された鳥居に願主 当所(真鶴)石工中と刻まれていることから分ります。 然し、真鶴の猟師さん方は、毎日出漁の時、豊漁と海上安全を、この神社に向って海上から祈ったそうです。 真鶴の漁業者、海運業者の信仰は、講を組織して相模平野にデンと聳(そび)える大山神社に参拝することでした。このことは、貴船神社に残っている「大山講諸掛帳」に行事記録が年次別に記録されています。 また、古老のお話では、「漁師さんたちは、伊勢志摩の青峯山正福寺(あおみねさんしょうふくじ)や大山神社も信仰したが、お山の神様が毎日毎日の神様だった」と言われていました。 ★真鶴のしとどの巌窟 治承の昔(1180)頼朝は、石橋山に三百余騎を率いて平家方大庭景親(かげちか)の軍勢と対陣し、大敗。湯河原椙山(すぎやま)の山中に入りました。翌24日、椙山の堀口に再度陣立てしましたが、重ねて敗れ、箱根権現の別当に助けられ、土肥実平など七騎を従え箱根神社に逃げ込みました。25日から27日までの頼朝の退路は、はっきりしていません。「吾妻鏡」「平家物語」「源平盛衰記」など諸説がありますが、箱根南東斜面を縦横に逃げ、各所に潜伏したことが推測されます。「しとどの巌窟(いわや)」もその一つです。 『北条記』(小田原記)には、北条氏綱が伊豆山権現参詣の帰り道、鵐(しとど)の巌窟(いわや)を見物したことが書かれています。また、天文14年(1545)連歌師宗牧(そうぼく)が『東国紀行』に「真鶴が崎、石上しる所………しとどの岩屋みせ侍り。此の岩屋は杉山の合戦に打ち負け給ひ………」と書いています。また、正保2年(1645)には外慧薫(えくん)と沙門蔭山(いんざん)が競い合うように「鵐の窟(いわや)縁起」を書いています。 ★胎中楠右衛門氏と真鶴 石の広場の西側斜面に胎中(たいなか)楠右衛門氏の石の胸像があります。胎中さんは明治9年(1876)高知県安芸に生まれ、青年時代に自由民権思想に憧れ、渡米し帰国後は立憲政友会に入り、神奈川3区より衆議院議員に四期当選しました。(神奈川県央より) 台座の背面の顕徳文を読んでみますと、「全国のみかん生産者の願いであった、北アメリカへの直接輸出に多大な貢献をしてくれた胎中さんにとって最も縁の深い真鶴に功績を称えて建立した」となっています。 胎中さんと真鶴の関係は、第1に真鶴港入口にあります「築港記念碑」を読んで下さい。町民にとって長い間の願いであった築港の実現運動の指導者であり、幾多の政治的障害を乗り越えて着工へと努力されました。 第2には、磯崎の水源地にある水道記念碑に書かれていますが「真鶴は古来水少なきに苦しむ……磯崎に霊泉あり……水質塩分多き故計画中挫………。」この時も県・国の行政を動かし、計画に着手・町民喜びのうちに通水しました。 ★真鶴の道祖神 「ナーム セイの神さんおがみます。たのみます。鰤(ぶり)がたくさんとれますように、おがみます。たのみます。」真鶴・岩の言い伝えでは、賽(さい)の神さん(道祖神)は子どもの神様だからと祈りや行事は、子どもが中心になって行われて来ました。 昔(昭和20年頃まで)は、12月の休みに入ると子どもたちは、オンベ宿に集って賽の神の祭り(ドンドン焼き)の準備をしました。世話人以外は全て子どもで、6年生の頭(かしら)とか長(おさ)と呼ばれる者を中心に山に入り、竹を切り円錐型(えんすいけい)の小屋を組み、正月7日を過ぎると門松やお飾りを集めあいました。門口に立って「鶴は千年、亀は万年……福の神が舞いこんだ」とか「この家の床の間にゃ白きねずみが金くわえ……」と縁起のよい文句をはやし、餅(もち)やだんごなども貰(もら)いました。14日には飾られた山車を引き太鼓をたたき、夜はドンド焼きです。(古老談) 真鶴の道祖神は伊豆系の僧形丸彫道祖神で、町内11か所に置れ(1か所道祖神紛失)、西の道祖神の台座には天保15年と刻まれています。 ★岩 如来寺洞窟の石仏群 岩海岸大浦の一角に、廃寺、帰命山如来寺の洞窟があります。 通称、岩の赤石・赤馬石と言われる岩盤を掘り進めた、地獄・間道・極楽は岩肌も荒々しく薄暗く、閻魔大王を初め十王像や奪衣婆(だつえは)が並び業の秤や善悪人頭杖(にんずじょう)が置かれ不気味な感じに襲われます。 この如来寺は、元和六年(1620)月山和尚が建立し、本尊阿弥陀如来石仏は但唱の作で、境内には石室(洞窟)があり十王及び聖観音と地蔵の石仏があると新編相模国風土記稿に書かれていますが、岩村明細帳では、寛永十八年(1641)月桂和尚が開山で、本尊は同じく但唱となっています。また亨保十年(1725)の如来寺財産目録に、本尊弥陀は今まで通り安置され、但唱が一夜で仕上げた観音石仏は岩穴に置かれ村人が百万遍の数珠を廻して念仏していると書かれています。 なお、如来寺の建立当時を物語ると思われる覚仏や万霊塔などの石造物が洞窟の入口にあります。 |